©AKANGA FILM ASIA_JULIANA TAN
オランダ、フランス、スペイン、韓国、シンガポール / 2025 / 99分 /
監督:タン・スーヨウ(TAN Siyou)
シンガポールのエリート女子校に転校してきた16歳のシンユーは、3人のアウトサイダーたちと出会い、意気投合する。4人はスクールカーストや厳格な校則に不満を抱き、友情の証として「ギャング」を結成し、自分たちのいたずらや反抗的行為をビデオカメラで記録する。しかし、学校当局にカメラが没収されたことで、撮りためた映像が露見する危機に瀕し、進路を控えた彼女たちの絆と将来が試される。
シンガポールの厳格な女子校を舞台に、抑圧的な規範にあらがう4人の少女たちの連帯を描いたタン・スーヨウ監督の長編デビュー作。シンガポールという場所の特異性を背景に、本作は彼女たちが「当局によって理想化された国家の物語」に疑問を呈する姿を描きながら、形定まらぬ思春期のアイデンティティを深く掘り下げていく。10代の少女たちの友情や絆を、ボーイフレンドや恋愛の物語に依拠させず、権威主義的な教育システムへの集団的な異議申し立てとして描いた点に本作の今日性はあり、同調圧力から身をかわすために自己を変容させていく若者の姿が、不定形な生命体であるアメーバのメタファーに重ねられている。彼女たちが最終的にはそれぞれに異なる経済的・社会的な現実に引き裂かれるかもしれない脆さとともに、自己を確立することの美しさと困難さをこの作品はみずみずしく描き切っている。トロント映画祭ディスカバリー部門で初披露された後、釜山や平遥などの映画祭でも上映、平遥では女優賞など3冠に輝いた。
監督:タン・スーヨウ(TAN Siyou)
陳思攸。シンガポール出身、ロサンゼルスが拠点の映画監督。ウェズリアン大学で映画と美術を学び、アメリカン・フィルム・インスティチュートの監督フェローシップに参加。短編『COLD CUT』(2024)、『STRAWBERRY CHEESECAKE』(2021)、『HELLO AHMA』(2019)がカンヌ、ベルリン、トロント、ロカルノなどで上映。Talents Tokyo、釜山のAsian Film Academy、ユニバーサルのDirector Initiativeの修了生。
監督ステートメント
この映画は、10代のころ自分に言い聞かせていた「私はアメーバだ」という物語を探りたいという思いが始まりでした。家族や学校、自分の生きる社会とつながりを感じられず、私は生き延びるために自分の殻に閉じこもっていました。性別もなく、意思もなく、孤独に水中を漂うアメーバは、幼い私にとって自分の写し鏡のように思えたのです。
成長するにつれ、朗らかな歌や「よき市民」の授業を通して、「さびれた漁村が近代的な大都市に変貌した」という神話が称えられていきました。天然資源のない小さな島国・シンガポール。私たちは、「国民こそが国家存続の鍵だ」という教典を叩き込まれました。当時、この教育制度はまるで訓練キャンプのように感じられたものです。腕時計のサイズからブラジャーの色まで監視される。この社会で「一人前になる」とは、自己探求のプロセスではなく、個性を失い集団的アイデンティティに同化すること。人格形成期に自分らしさを見出す前に、はまるべき型がすでに決められていました。成長期の記憶には、いつも建設の騒音が響いています。野原が一晩で工事現場に変わり、古い建物が突然解体され、幼い頃の家が高速道路に姿を変える。そんな光景を、何度も見てきました。このような状況のなか、私の映画の登場人物たちは、シンガポールの光輝く表面の下に隠されたものを探そうとします。国が掲げる華やかな物質主義の下に埋もれた“忠誠”や“名誉”といった価値、そして国家統制を脅かしかねないあらゆるものまで見つけ出そうとするのです。
学校で居残りの罰を受けるなか、私はほかの隠れレズビアンの子たちと出会いました。私たちは親友グループを結成し、それが本作の原点になっています。保守的な中華系の女子校で、私たちはお互いを姉妹ではなく「兄弟」として扱い、「礼節ある女性・従順な妻」という理想像を押し付ける校風に抗いました。私たちの友情には、影が常に付きまとっていました。「国のために生産的に働き、子を産む人間にはなれない」という無言の断罪を感じていたのです。何度も罰を受け、友達でいること自体が非合法であるかのように感じました。ある種の親密さを求めていたあの頃の私にとって、彼女たちは初恋の相手のような存在でした。失うのが怖くて、「兄弟の契」を結ぶギャング風の儀式をしたいと秘かに願っていました。古代の神秘的な力に祈れば絆は守られる、そんなロマンチックな発想です。
『アメーバ』は、思春期にアイデンティティを葬り去られた喪失感と向き合うための、私なりの方法です。神話を作り、物語を伝えるという行為を通して、社会や個人のアイデンティティがいかに形成されるかを探ろうとしました。もし国家が自らの歴史を消し、教条的な物語を上書きしたら、市民の心や生き方にどんな影響があるのか。押しつけの物語に抗うために、私たち市民はどうやって自分自身の物語を紡げばいいのか。最も親しい友達との間であっても、どうすれば自分らしさを保ち、周りに呑み込まれずにいられるのか。映画を作るために自分の過去を掘り起こす作業は、かつての私と今の私を深く結びつけてくれました。
劇中で、主人公は幽霊に悩まされている証拠を残そうとカメラを手にします。そして、忘却するのを目的に埋められた宝物や記憶を発見していきます。私もまた、失われたものを見つけ、取り戻すために映画を作るようになりました。いまでも過去を掘り下げていると、幽霊たちが戻ってきて、私に憑りつこうとします。私が生きる世界の下には、もっと荒々しく、広く、深遠な別の世界が横たわっているような気がします。忘れられた世界で、幽霊たちが再び地上に出たい、声を聞いてほしいと切望しているのです。