『蜂の飛行』
ミン・ビョンフン監督 インタビュー

 小さな蜂が、いくつもの国境を越えて、東京のスクリーンに飛んできた。モスクワで映画を学んでいた韓国出身のミン・ビョンフンと、タジキスタン出身のジャムシェド・ウスモノフが九八年に製作した「蜂の飛行」。タジキスタンの小さな村で、権力者の横暴に立ち向かう小学校教師の奮闘を、セピア色の映像で慈しむように描き出す。製作費わずか六万ドルの自主映画の長い旅を、ミン監督に聞いた。
 海外留学経験者ぞろいの韓国の若手監督のなかでも、ロシア国立映画学校卒業という彼の経歴は目を引く。
 「大学受験に二度失敗したのがことの起こり。仕方なく兵役に行き、除隊後にあらためて映画学校進学を目指しました。でも、以前の失敗から、韓国の学校は合わないと思った。単なる技術ではなく、映画の本質を学ぼうと、ロシアの学校を選んだんです。」  学生寮の上の階にいたのがウスモノフ。地下鉄工事のバイトをしながら、明日の監督を夢見ていた。激情家のタジキスタン人と温厚な韓国人は、小さくても純粋な映画を作りたいという思いで意気投合。「彼が故郷で撮った『井戸』が大好きで、一緒に映画を作ろうと持ちかけました」。九七年の秋だった。
 「井戸」は、ウスモノフがソ連崩壊前の九一年に撮影した短編。家族のお荷物になっている父親が、息子を水汲みの重労働から解放しようと井戸を掘る。「蜂の飛行」は、小学校の先生が、隣家の横暴な金持ちに抗議するため、金持ちの家のすぐ脇にトイレを掘る。純粋で不器用な中年男が、穴を掘ることで自己実現しようとする筋書きは似ているが、二作品は好対照の結末を見せる。
 「ウスモノフは、まったく新しい映画を作ろうとしていたけれど、僕が『井戸』に惚れ込んでいたので、連作のような形になりました。設定は似ていても、まったく違うメッセージを込めた作品を作ってみたかった。」
 登場人物のほとんどは、撮影した村の住人たち。クランクインの三ヶ月前から村に住み込み、カメラを持たずに地元の人々と交流を重ね、そこで感じたことを作品に反映していった。撮影を兼ねるミンが構図や大きな演技の流れを決め、ウスモノフがセリフの演出をする形で共同監督した。
 製作資金はミンが調達。だが、プリント代が足りず、最後は消費者金融から借金した。一昨年の釜山国際映画祭で初上映され、二十を越える海外の映画祭を回り、トリノ映画祭グランプリをはじめ各地で受賞を重ねた。「白黒の芸術映画は興行に向かない」が定説の韓国内でも、昨年末に劇場公開が実現。ヨーロッパの基金の援助で、「井戸」を仕上げる資金も得られた。「各地の映画祭で観客の反応をじかに感じたことは、賞やお金以上の財産になっている。こうやって映画を作ってもいいんだと、大きな励ましを受けた」。国境を越えたネットワークのなかで、インディペンデント映画がはぐくまれていくことをあらためて実感させられる言葉だ。
 FILMeXに参加後、ミン監督はすぐに新作「大丈夫、泣かないで」の現場に向かった。今度の舞台はウズベキスタン。「慢性うそつき症」の主人公の物語だという。
 「タジキスタンでの体験から、言葉や習慣は違っても、人間の根本にある純粋さに変わりはないと確信が持てた。それに、文化の特殊性を見せたがる映画は、どこか商品臭い気がする。僕はその土地の文化ではなく、そこに暮らす人々のありのままの姿を描きたい。それさえ描ければ、映画は成立するはず。たとえ日本の田舎でも、自分の映画を作れると思っています。」
そうそう、蜂が運んできたお土産がもうひとつ。撮影のために掘った穴からは、本当に水が湧き出した。大喜びした村人は、井戸に二人の監督の名前をつけ、今も活用しているという。

深津純子(ジャーナリスト)


監督プロフィール:1960年韓国、ソウル生まれ。TV番組の助監督として働く。1998年、ロシア国立映画学校(VGIK)を卒業。『蜂の飛行』は、彼のデビュー作である。

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