『プラットホーム』
ジャ・ジャンクー監督 インタビュー

 デビュー作『一瞬の夢』で早くも世界の映画関係者から注目されたジャ・ジャンクー監督。その第2作『プラットホーム』は、小品の趣の濃かった第一作とは対照的な3時間を越える超大作となった。だが、それを「長い」と感じる人はいないだろう。映画が幕を開けたが最後、僕たちの眼前に現れるのは、間違うかたなき本物の才能の狂気じみた輝きに彩られたショットの連続に次ぐ連続。終止感じられるのは、長さどころかむしろ監督が内に抱えた「自らの物語」を一気呵成に語り切らんとする爆発的な勢いの方だからだ。  映画が描くのは、79年から89年にかけての時代。地方を旅してまわる文化劇団のメンバーの姿を通じて、ダイナミックに変貌する中国の姿を綴ってゆく。
 「こうした時代を選んだのには理由があります。一つには、この時代が中国にとって、経済的にも、文化的にも、とてつもなく大きく激しい変化を経験した時代だから。文化大革命が終わり市場経済化の波が押し寄せてきた時代にあたります。そしてもう一つは、これがまさに僕自身が子供時代から大人へと成長していった時代と重なるからでもあります」
 それゆえに『プラットホーム』は、彼自身の生まれ育った地であるフェンヤンを舞台に語り起こされる。その感動的なロケーションの数々は、まさに自分の知り尽くした街だからこそ、でもあるのだろう。
 「第一作『一瞬の夢』の舞台にもなった街です。僕の心の中では『一瞬の夢』の頃から、既に今回の映画のロケ地探しが始まっていたと言えるかもしれません。その後しばしば『プラットホーム』のロケハンという名目でこの街を訪れたのですが、やがて僕自身、それが通常のロケハンとは意義が異なっていることに気付きました。映画のための風景探し と言いながら、実は自分自身の記憶を辿る旅をしていたのです」  そして訪ねれば訪ねるほど、学生時代は何年も戻っていなかったこの街に引き込まれていった。
 「映画の道に進んでから、僕の生活空間は、北京であれ、ヨーロッパの映画祭であれ、とにかく近代的な都市ばかりになっていました。だからある意味、改めて戻ってみた自分の故郷は、とても新鮮な体験だったのです。都会的な環境から逃げ出したいという気持ちが高まってもいたのでしょう(笑)」
 そんな生まれ故郷を出発点に、ある部分監督本人の職業とも重なる「文化工作者」の一群が否応もなく被っていく激しい時代の変化。だが、そうした激しい変化のあったがゆえに選ばれたというこの時代を描くにしては、意外なほど映画の表面には政治、経済の激変を語る光景、事件は姿を見せていないようにも思われる。 「それこそ、意図したことなのです。これが北京に住んでいる人間の話だったら別かもしれませんが、他の地方都市で生活してきた人間にとっては、文化大革命以降の中国の“激変”とは、あのような、前日とは何も変わってはみえない単なる日常の連続だったのです。そしてだいぶ後になってから初めて、心の中で、時代があまりにも大きく変わってしまったことに気付く……。そんなあの時代の真実を描きたくて、敢えて歴史的、社会的な大きな出来事が映画に正面きって出ることを避けたのです」
 そんななかで、おそらくは背後に聞こえる音楽だけが、時代の変化を気配として直接的に告げている。
 「この映画が描きたかったのは、歴史というより、まさにそうしたあの時代の“気配”そのものでした。実は僕は昔からの経験で、その気になれば古典的なフィクション映画のプロットを書くのが得意なのはわかっていた。でも『プラットホーム』を僕は、物語ではなく気配そのものが前景に出る映画にしたかった。たとえば、あのロングショットの長回しも、そんな考えの反映なんです」

暉峻創三


監督プロフィール:1970年中国山西省フェンヤン生まれ。1993年に北京電影学院に入学。1995年、インディペンデント映画製作グループを設立し55分のビデオ作品『小山回帰』を監督、香港インディペンデント映画賞の金賞を受賞。1997年に卒業製作として16mm長編劇映画『一瞬の夢』を監督。1998年のベルリン映画祭でワールド・プレミアとなり、ヴォルフガング・シュタウテ賞(最優秀新人監督賞)を受賞。その他3つの映画祭でグランプリを獲得した。

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